意識高いダイエットへの宣戦布告 ~クソッタレな常識に、俺は中指を立てる!~

ダイエット。それは現代社会が我々に課す、数少ない合法的な自己虐待である。まるで自ら進んで苦行に身を投じるマゾヒスティックな儀式とでも言おうか。
巷にはびこる“意識高い系ダイエット”たち。
「糖質は敵!」
「朝はスムージー!」
「筋トレは習慣!」
「水を2リットル飲めばすべて解決!」
って、おまえらは水棲生物か?
金魚鉢にでも住んでるのか?
毎日、ジムで汗水垂らして、プロテインシェイカーをシャカシャカ振る姿を見ると、もうね、胸焼けがするんですよ。
いや、お前らが健康になるのはいい。
勝手にやれ。
だが、そのキラキラした汗と筋肉で、俺のポテチまみれの魂を照らすな! 眩しいんだよ!
私はある日、深い悟りを開いた。
「努力しないダイエットは、果たして存在しないのか?」と。
そこで私は考案した。その名も『意識が低い系ダイエット』。
ルールは極めてシンプル。
* 運動しない。 (なんなら、動かなくてもいい。寝ながら転がって移動も可。)
* 食事記録しない。 (食べたものは、胃袋が記憶する。それが一番確実だろう?)
* 栄養バランス?知るかバカ! (必要な栄養は、体が必要な時に勝手に要求する。それが本能だろうが!)
* 体重計、ぶっ壊していい? (数字に縛られる人生なんてごめんだ。目視で「まぁ、変わってねぇな」でよし!)
* 健康アプリ、アンインストール上等! (スマホの画面にデカデカと表示される「今日の運動量:ゼロ」ってやつ、あれ、精神衛生上良くないだろ?)
これを聞いて「お前それダイエットじゃねぇよ」と思った読者諸君。
うるせぇよ、それが狙いだよ。
意識が低いことこそが、私の哲学なのだ。
なぜなら、世の中は「頑張れ!」「努力しろ!」という声で溢れすぎている。
時には、頑張らないこと、努力しないことにも、計り知れない価値があるはずだ。
そう、このダイエットは、「がんばらない」という、人類が忘れかけた究極の怠惰の境地を極めるための、聖なる修行なのだ!
いざ、意識が低い道へ!
地獄のような楽園へようこそ ~カップ焼きそばと共に歩む、時間との戦い~
こうして私は、「なにもしないことをする」という、究極の修行に入った。
最初の数日は、それはもう快適そのものだった。まさに地獄のような楽園、略して「地楽」である。
ポテチを一袋開けてはベッドに倒れ込み、そのまま寝落ち。翌朝は目覚ましを破壊し、起きたての体にカップラーメンを流し込む。
朝食はセブンイレブンの「蒙古タンメン中本 汁なし麻婆麺」一択!
コーラをすすりながら、“ストレスは敵”と唱える。
最高の朝だった。
そう、この世には「最高」しか存在しないと本気で思っていた。
が、数日後、恐ろしい変化が起きた。
まず、時間が異常に長い。
いつもなら「よし、ジム行ってシャワー浴びて〜からの、意識高い系カフェでドヤ顔でオーガニックコーヒー飲んで〜」で半日が終わっていた。
しかし今は違う。
だって、やることが何もないのだ。
朝食→動画→昼食→動画→おやつ→虚無→夕食→後悔→夜食→自己嫌悪。
このサイクルを、飽きることなく繰り返す。
するとどうなるか。
人間、嫌でも自分と向き合い始めるのだ。
まるで禅寺にでも籠もったかのように、外界の刺激が遮断され、内なる声が響き渡る。
【精神と時の部屋突入】意識低いのに悟りが近い ~俺の悟りは、まるでカップ焼きそばの湯切り口~
静寂の中で、私は問い続ける。
「努力とはなにか? 俺は今、カップ焼きそばにお湯を注ぐ、という努力をしている。これも努力なのか? いや、湯を沸かす努力を、電気ケトルに丸投げしている時点で、俺の努力は水の泡だ。」
「目標って誰のためにあるのか? ダイエットの目標が、一体誰のためにあるのか? 意識高い系のインスタグラマーにいいねをもらうためか? そんな承認欲求、インスタントラーメンのスープの素よりも薄っぺらいぞ。」
「管理されない人生に価値はあるのか? 毎日体重計に乗るのをやめたら、俺は完全に野に放たれた獣のようだ。だが、この自由は、本当に価値があるのか? それとも、ただの無秩序なのか?」
「カップ焼きそばにお湯を入れて3分待つことだけが、今の俺のルーティンって、どうなの? 3分…この3分が、俺の人生の全てを決めるのか? 3分後の俺は、果たして何者になるのか? 麺がふやけ過ぎる前に、俺は覚醒できるのか?」
私は気づいた。
この状況、まるでドラゴンボールの精神と時の部屋と一緒やんけ。
外界の情報を遮断し、過剰な自己投影と内省によって、時間の流れが狂ってくる。
カロリーは摂取するが、精神はカロリーを燃やすだけの目標を持たない。
やばい。
やばいぞこれ。
このままじゃ痩せる前に、存在の意味が溶ける。
まるで湯切り前のカップ焼きそばの麺のように、ふやけて、ドロドロに溶けてしまう。
【比較と劣等感の沼】SNSという地獄の鏡 ~俺のインスタは、まるで開けちゃいけないパンドラの箱~
さらに追い討ちをかけるのがSNSである。
「朝5時からHIITやってきた〜✨今日も汗だく! #ジム活 #自分磨き #最高の朝」
「#ヘルシーランチ #サラダチキン #オートミールおにぎり #理想の自分に近づく」
「今週3キロ落ちた♡目標まであと2キロ! #ダイエット仲間募集中」
し ら ん が な。
俺なんか、朝5時に、まだ寝てる母の枕元に置いてあった食パンの袋を、音を立てないように口で開けて、ベッドでむさぼってるぞ。パンくずをシーツに散らしながら、至福の時を過ごしている。
でもそんなこと、投稿できない。
なぜなら、人間には「自分を卑下するセンス」だけは、なぜか等しく備わっているからだ。
SNSを開くたびに、心がザワつく。
キラキラした投稿を見るたびに、心のどこかで「俺はダメだ…」「このままじゃ、人生の敗者だ…」という声が湧く。
だが、ここでふと思った。
「誰と比べてるんだ?」
この自分を貶める声の正体は、“意識高い他人”という明確な敵ではなく、“理想の自分”という、実体のない妄想に過ぎないのだ。
幽霊と戦ってるようなもんだ。勝てるわけがない。いや、戦う必要もない。
そして、その妄想が、まるでSNSのフィルターのように、現実の自分を歪めて見せていたことに気づいた。
俺の肉体は、ただ存在しているだけなのに、世間のダイエットフィルターを通すと、「醜い」「だらしない」「ダメなやつ」と勝手にレッテルを貼られる。
まるで、顔に落書きされたブサイクなてるてる坊主のようだ。
【哲学的深淵へ】それでも俺は、生きている。~そして、この体は、俺の宇宙だ~
「ダイエットに失敗した」と思った瞬間、人は敗者になる。
「太ってることが悪」と刷り込まれた社会では、痩せてない自分に存在価値を見出せなくなる。
でも本当は逆なんじゃないか?
太ってようが痩せてようが、
「そのままの自分と一緒に飯を食ってくれる人」がいる世界の方が、
「腹が出てるけど、なんかお前、面白いこと言うよな」と笑ってくれる人がいる世界の方が、
正しいんじゃないか?
意識が低いということは、
ルールや評価軸を、自分の手で手放すということ。
そこには、評価も、競争も、ない。
あるのは、目の前にあるカップ焼きそばの湯切り口と、自分の顔だけだ。
湯気で曇った鏡に映る自分。
その中に、真実がある。
このダイエットは、体を変えるためのものじゃなかった。
「自分との関係」をリセットするためのものだったのだ。
私は、ポテチとカップ焼きそばにまみれながら、この境地にたどり着いた。
そして気づけば私は、どこか懐かしくて哀しい静寂の中にいた。
まるで、宇宙の果てで、一人ぼっちの星になったような気分だ。
孤独だが、自由。
しかし、その自由は、あまりにも広大で、俺を飲み込みそうになる。
もしかしたら、俺のこの腹も、もはや宇宙の膨張と同じ現象なのではないか? そうだ、俺の体は、俺自身の宇宙なのだ!
【クライマックスかと思いきや】~突如現れた黒い影、その正体は…!?~
……とか言ってたら、隣の部屋から母が「アンタ、今日も風呂入ってないの⁉ またカビ生えて死ぬ気⁉」と叫んできた。
風呂? そんな概念、意識低い系には存在しねぇんだよ。
いや、あるにはあるけど、それは「気が向いたら入る」という、意識の高い行為に分類される。俺はまだ、その境地には至っていない。カビ? カビもまた、生命の営み…(言い訳がましい)
感動? 哲学?
はぁ? 全部燃やせ!!
うおぉぉぉぉぉぉ!!!!!!
哲学的考察に火を放ち、感動の余韻をパリピのテンションでぶち壊す!
意識が高かろうが低かろうが、最後に残るのは無!!
そう、燃え尽きた後の灰、残ったのはカップ焼きそばの空容器と、無数のポテチのカスだけだ。
そして無になった。
【そして】
でもね、
その“無”の中でふと気づいたんだ。
「俺、ひとりじゃなかったな」って。
そして、それは、あなたが、この記事をここまで読んでくれたから、だよ。